2010年8月12日
元鉱山長ひとりごと
こんにちは、元鉱山長です。
最近、営業をやっていて、
「そーですかぁ、釜石にいたんですかぁ、あそこは国内最大級の鉱山だったよねぇ」
って、よく言われますが、どのくらい大きかったのか調べてみました。
こういう点は、今いるコンサルティング会社は資料が豊富で便利です。
フムフム、『日本の鉱床探査』鉱山地質学会1981年版によると、
釜石鉱山で1979年までに採掘した鉱石の総量は5,300万tだそうです。
ちなみにその資料では、
別子銅山が、3,500万t、足尾銅山が3,000万t、明延鉱山が1,500万t。
鉛亜鉛で有名な神岡鉱山は鉱山が大きく二つに分かれていて、
1980年時点で栃洞坑が4,300万t、茂住坑が930万t。
黒鉱と呼ばれる花岡や小坂鉱山の採掘した鉱石の総量は各々約1,000万t前後だそうです。
というと、やっぱり日本一の鉱山だったっていえるかなぁ・・・・。
ちなみに世界に目を向けてみると、えーと、最近のデータで、
チリのエスコンディーダやチキカマタ鉱山では年間8,000万t、えっ年間!?。
1年で釜石の数十年かけて到達した採掘量以上の量を掘っちゃうの?
でも、これは露天掘りだからね。
坑内掘りでこれだけ掘った釜石は立派だよね。
って自分で自分を慰める今日の元鉱山長なのでした。
カテゴリー:鉱山長のひとりごと、作者:yanase、コメント:
2010年6月1日
元鉱山長ひとりごと
元鉱山長です。
大変ご無沙汰しております。
現在もなんとかコンサルティングの営業をやっています。
1年くらい前にこのブログで、
大仏次郎の『天皇の世紀』を紹介したことがあります。
幕末から維新にかけての歴史を大仏次郎風にまとめたもので、
ものすごく面白いのですが、絶版になっていて、
なかなか読むことのできない本でした。
ところが今年になって文春文庫から新装版が出てきたのです。
やっぱり、眠ったままではもったいないと思ったのでしょうね。
うれしいなあ。
是非、読んでいただけれたらと思います。
その第1巻は、維新の前触れ、前兆となる事件を取り扱っています。
もちろん、きっかけになったのが『黒船』であることよく知られていることですが、
大仏氏は、それと同じかそれ以上のインパクトあったとしてある事件を取り上げました。
しかもそれは釜石で起こったのです。
釜石の南に『平田』という海に面した地区があります。
これは『ひらた』ではなく『へいた』とよびます。
十数年前三陸博という地方博が開かれ活況を浴びた地区です。
昔は平田の南は仙台藩となっていて、平田に南部藩の関所がありました。
1953年6月、丁度黒船が来航した時期に、この平田に約3万人の農民が集結したのです。
これは三陸博どころの集まりではありません。
今は埋立地があり平地が多いですが、当時は平坦なところが少なく、そこに3万人ですから、
嵐のコンサート会場の様な熱気だったと思います。
この人たちは、南部藩の圧政に耐えかね仙台藩に移住しようとしたのです。
大仏氏はこう言っています。
江戸時代の封建社会は農地が基本であり、農民が農地を手放す、という発想はありえなかった。
それが、3万人もの人たちが一度に農地を手放すことを決意したのは・・・。
この先は、是非文庫本でお楽しみいただければと思います。
それにしても大仏氏は『平田』にルビをふっていませんでした。
『へいた』って読むことを知っていたのかなあ?
釜石勤務したおかげで『へいた』って読めることを、
ちょっと得意げ感じている元鉱山長なのでした。
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カテゴリー:鉱山長のひとりごと、作者:yanase、コメント:
2009年9月17日
復活!!鉱山長のひとりごと5
『官僚たちの夏』見ました。
いやぁ、懐かしかったです。
そして嬉しかったです。
まず、いきなり旧事務所の表玄関が映り、
「おーこれこれ!」
と叫びながら、次のシーンで
「あれは保存水工場のシャッターだよ。」
とか
「昭和39年頃ってシャッターあったっけ?」
とか
「これは仙人秘水の最新式のパイプラインだよ。」
とか
「これは明治時代にできたレンガ倉庫で山の斜面の設備はCGだよ。」
なんて、キャアキャアと得意げに家族に説明して
「うるさいわねぇ、シリアスな場面なんだから」
と怒られたりしながら楽しく拝見できました。
総務課長のとこの子供たちは映ってたのかなあ。
総務課Mらしきはいたような・・・・。
それにしても大人数のエキストラでにぎわってたんでしょうねぇ
しかも550mにある坑口と350mにある旧事務所の2ヶ所の撮影で大変でしたね。
これを機に釜石が盛り上げればいいな・・・って思った元鉱山長なのでした。
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カテゴリー:鉱山長のひとりごと、作者:kawata、コメント:
2009年8月5日
復活!!鉱山長のひとりごと4
元鉱山長は最近営業ばかりやっています。
営業は会社の窓口みたいなところがあって、その人の対応、人格がその会社のイメージを作ってしまいます。たまたま営業担当がいい加減だと、あの会社いい加減だよ、とか逆にまじめな対応だと、あの会社はまじめだ、とか、だからいい加減な営業はできないなあ、といつもプレッシャーを感じている次第です。
前述の「天皇の世紀」に幕府とロシアの交渉の記述がありました。
ロシアは武力を背景に国交と治外法権、領土問題を持ちかけてきたのです。明らかに日本には不利な内容です。だけど武力では太刀打ちできません。
そのときに幕府方で対応したのが川路聖謨(かわじとしあきら)という人物でした。
相手方はプチャーチン。
大仏次郎いわく「火薬庫の上に座って談判するような危険な立場だった」この状況で、なんと川路は堂々と人柄でプチャーチンを圧倒したのでした。
ロシア側の記録「日本渡航記」にこう記載されています。
「彼は私たち自身を反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それだけでもこの人を尊敬しないわけにはいかなかった。その一語一語が、まなざしの一つ一つがそしてその身振りまでもが、ウィットを烱敏と練達を示していた。明知はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある。馬鹿には馬鹿の共通点があるのと同じである。」
ここまで相手を魅了できるとは・・・・うらやましい。
プチャーチンの執拗な通商の催促に対し、川路は
「なるほど」と不意に大きな瞳を挙げて
「外国からガラスなどの必需品をもってきてもらうのは結構なことです。しかし、昨日頂戴した様な時計を見ると、手前どもは目も眩んでしまうので、あんなのがくるようになったら、日本人は何もかも渡して素っ裸になってしまうでしょう。」と言ってから
「しかし只今申し上げたのは、ただあの時計を私が大変気に入った証拠と解して頂きたい。」
切り替えたのです。
すんばらしい!
これにはロシア側は何にも言うことができず不満を胸中に秘めながら日本を立ち去ったのでした。
こういうことがなかなか言えない幕府の交渉担当は苦労していたのでしょう。アメリカのペリーとの交渉ではすっかり威圧されてしまい
「交易は許さなかったけど、相手にとっての必需品は売ることとした」としたそうで、交易を理解している島津斉彬から「じゃあ、その見返りにお金ではなくアメリカの商品を強要されたらどうするの」って聞かれた時に「そのときはやむを得ない」と答えたのだそうです。これは、事実上の交易だよね。
大仏次郎は「この根性の無いあいまいな態度が、日本を開国させた。(中略)まだ、開国してはいません、と言い続けている間に」と書き綴っています。
やっぱ人なんだなあ・・・。
真面目で素直な営業をすることで、まじめな素直な「仙人秘水」がわかってもらえたらなあ
と改めて思った今日の元鉱山長なのでした。
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カテゴリー:鉱山長のひとりごと、作者:yanase、コメント:
2009年7月8日
復活!!鉱山長のひとりごと3
最近、ある友人に薦められて大仏次郎の『天皇の世紀』を読み始めました。
『天皇の世紀』は昭和42年から大仏次郎が癌で亡くなる昭和48年まで朝日新聞に掲載された、
幕末から明治にかけての歴史を膨大な資料を紐解いて書き綴った、単行本で10冊くらいになる未完の大作です。
面白い!実に面白い!
こんなに面白いのに本屋にぜんぜん置いてないし
図書館をいくつか回ってようやくある図書館の書庫の中から引っ張り出してもらいました。
もったいない、もっと世間で読まれても良いのではないか、と思うのですが。
第一巻の冒頭から、ペリー来航前後の公家、幕府、水戸、薩摩等諸藩の状況が克明に述べられていて、そこに属する人々がどのような影響を受けて思想を持ちどう行動したのかを克明に描いています。
気品が高く権威を振りかざすが貧乏な公家
旧来のしきたりを踏襲し外夷を見ない振りして変革を嫌う幕府
御三家でありながら神道を崇拝し攘夷の先方を行く水戸
外夷の脅威を知り、したたかに動き始める薩摩・・・・・等々
これからどう展開されるかドキドキです。
その中で、第一巻の初め頃に長崎の砲術家”高島秋帆”の話が出てきます。
秋帆は代々和式の砲術を扱う家に生まれ、子供の頃から砲術を勉強してきました。そんな中、オランダ人と接する機会の長崎の地の利から、様式の砲術を知り和式との差に愕然します。
そして私財を投じて日本で最初に洋式砲術を身に着けることになるのです。
外夷の脅威をひしひしと感じてきた西国諸藩は秋帆に弟子入りをさせるようになります。
一方で幕府はまったく興味を示すことはありませんでした。
その頃、隣国ではアヘン戦争があり旧式の東洋武力が西洋の武力にあっさり負けてしまいました。
秋帆は幕府に洋式砲術の重要性を意見書で訴えます。
幕府もさすがにアヘン戦争の結果から外夷の脅威を感じるようになり、秋帆に江戸で演習を行うよう指示します。
そして江戸の西方の徳丸が原で日本で最初の西洋式演習が行われました。
このときの状況は子母澤寛『勝海舟』にも描かれていて、勝海舟がまわりの人が大砲の音に驚いているのを、
「そんなんに驚いている場合でない、この演習は集団で動いている。個が失敗しても集団でカバーできる」
と西洋の方式に感動し、勝海舟のその後の人生を変えた演習なのですが・・・・。
一方、幕府はある程度威力は認めたものの勝海舟ほどの感銘は受けず、秋帆に命じたのは他藩に砲術を教えてはならぬ、ということでした。(もう弟子は何人もいるのにねぇ)
その後、西洋をきらう幕府の役人によって、秋帆はあらぬ罪で投獄されてしまいます。
それでも秋帆はあきらめず切磋琢磨し、社会の状況が変わった10年後にようやく幕府に認められたのでした。
これには、幕府の中にも秋帆を認める人たち、本物を見極める人たちがいて尽力したものも認められる一因となったのでした。
日本で最初に西洋式演習を行った徳丸が原は、高島秋帆の偉業を称え『高島平』と名を改めたのでした。
ひたすら自分を信じ突き進む、このような人たちがいっぱいいて今の日本があるのだなぁ
そして、本物をひたすら磨き続ければ認めてくれる人はきっといる。
『仙人秘水』もそうありたい、と思った今日の元鉱山長でした。
wrote:kawata
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カテゴリー:鉱山長のひとりごと、作者:yanase、コメント: